「ナルにあたしは、必要ないんだよ」
その言葉を口にした瞬間、涙がぽとりと、こらえきれずに、落ちた。
これがあたしの限界。
ナルとあたしの、境界線。

ナルは何も答えずに、あたしを見る。
その青い瞳に
射抜かれてしまいそうだ。
心が。
壊れてしまう。





届かない背中





その日は朝から小雨が降っていた。
天気予報によると、どうやら台風が近づいているみたいで、夕方に直撃するらしい。
「これからバイトなのに、大丈夫かなー」
事務所へ向かう階段を上りながら、あたしは空を覗き込んだ。
相変わらずの小雨ではあるけど、風がすこし、強まった気がする。
「こんにちはー」
カラン、という扉につけた軽やかなベルの音とともに、あたしは事務所に入った。
「おー、現役女子高生のおでましだー」
ソファーに座ったぼーさんが軽くそう声をかけてきた。
「あれっ、ぼーさん今日はバンドのライブがあるって言ってなかったっけ?」
きょとんとしてあたしが聞くと、ぼーさんはそーなんだよ、とため息をつく。
「そのためにこんな牛追いみたいな格好してきたのにさー、
向こうは台風の影響が酷いらしくて、交通機関もストップ。だから中止になったよ」
牛追いって・・・。まあ、たしかにぼーさんの今日の格好は普段着には見えないくらいゴージャスだ。
「ふーん、そっかー。今回の台風はよっぽどなんだね、怖いなー」
カバンを置きながらそう言うと、ぼーさんはうんうん、と頷く。
「ところで麻衣、おじさんにアイスコーヒーをくれないかな。もうのどが渇いて渇いて」
「はいはーい、ただいま」
元気よく返事をして立ち上がると、所長室の扉が開いた。
そして、
「麻衣、お茶」
と、聴きなれた二言。
声の主は相変わらず綺麗な顔だけど、なんだか少し疲れた様子だった。
「はいはーい」
もひとつ返事をしてあたしはそそくさとお茶を入れに行った。


*****


「はい、おまちどーさまー。お茶が入ったよ」
給湯室から元気よく飛び出て、あたしはお盆をコーヒーテーブルに載せる。
「おー麻衣、ありがとさん」
嬉しそうなぼーさんの返事。
「あれ?ナルは?」
コーヒーを渡しながら聞くと、
「ナルならもう所長室に入ってったよ」
と教えてくれた。
・・・お茶入れろとか言っといて自分はそれかい。
まあ、いつものことですけど。

「しゃーない、じゃああたし所長様に渡しに行ってくるね」
座りかけた腰をよいしょとまた上げて、
「おう、気いつけてな」
「うん・・・ってなんでよ?」
「なんかさー、ナル坊いつにも増してブリザードが激しいというか、
冷気があるというか…まあ、麻衣なら大丈夫か」
ぼーさんはそれだけ言うとおいしそうにコーヒーをすすった。
・・・それってどういう意味でしょうか。

でも確かにさっきの様子でも、ナルは疲れたような顔をしてた気がする。
あのナルのことだからまた寝てないんじゃないかな。
そう思いながらあたしは所長室のドアを二回、ノックした。


「ナルー、お茶入ったよ」
ノックとともに所長室に入って、そう言った。
ナルはいつものように、あたしからしたら頭が痛くなりそうな難しい書類に目を通している。
いつもそんなに顔色がいいほうではないけど(本当のところ)でもやっぱり今日は普段よりすぐれない気がする。

「根詰めすぎると体に悪いよ?」
ティーカップを机において、一応言ってみる。
ナルは聞いてるんだか聞いてないんだか、ああ、と一言返事をしただけだった。
まあ、これ以上言っても無駄かな、と気づいて、あたしは所長室をあとにした。

ナルって、人間に必要最低限な食べることとか、寝ることをすっかり忘れることがあるみたいだ。
学者肌といえば、そうなのかもしれないけど。でもやっぱり体に悪いと思う。

「どうだった、ナル坊の様子は?」
ソファーですっかりくつろいだ様子のぼーさんが、のんきに聞いてきた。
うわ、格好が格好だけにホストみたい・・・なんて失礼か。
「うーん、普段どおりだったけど。やっぱりちょっと顔色悪いよね。大丈夫なのかな」
「やっぱ不規則な生活してるんじゃないかー?今リンがいないしな」
そうそう、いつもはリンさんがナルを諌めてくれてるみたいだけど、
今リンさんはまどかさんから頼まれ事で、暫く留守にするらしい。
「麻衣、ご飯作りにでも行ってやったら?」
楽しそうに笑ってぼーさんが言ってきた。
ご飯ねえ・・・
「・・・ってなんであたしが?!」
慌てて返すとまた楽しそうにぼーさんが笑う。
「さてと、俺そろそろ帰るわ。延期になったライブのことでなんか呼ばれてるし」
そう言ってぼーさんは携帯を眺め、ため息をついた。
「尺八ライブも大変だね」
さりげなく仕返し。
「そうそう、お坊さんも人気者で大変なんだよー。じゃあ麻衣も気をつけて帰れよ」
ぼーさんはさりげなくかわして、あたしの頭にぽん、と手を載せて笑い、そそくさと帰ってしまった。
あたしゃペットか。

部屋に一人ぽつんととり残されたあたしは、不意に壁の時計を見やった。
もう6時か。
秋だというのに空気がこんなに重く暗いのは、きっと台風のせい。
カチ、コチ、という規則正しい時計の針の音がやたらと耳につきはじめる。

それから、ふと気づいた。


あ、あれ?今、私ってナルと二人っきりじゃん。
一瞬うかれて、そのあとまた普通に戻った。
だって、あのナルと何かがある訳ない。



って、思ってたんだけど。



嵐は、すぐそこまで来ていた。