「14 その手を振り払う勇気」の麻衣視点小説です。

























夕焼けが、目に染みるほどまぶしかったことを覚えてる。
小さなあたしと、お母さん、お父さん。
動物園に出かけた休日の帰り道。
あたしは二人の間で手をつないでもらいながら、ニコニコ笑っていた。
それが、家族みんなで過ごした最後の記憶。





繋いだ手





「麻衣、暑苦しい」
夏なのに黒い服を着て涼しげな顔のこの男は、涼しげな顔で酷いことを言ってのける。
「いーじゃん、ナルいつも相手にしてくれないんだもん。隣にいるくらい我慢してよ」
暑苦しいのはナルの服装だ!!って言いたくなるんだけど、何百倍の皮肉を込めて返事が返ってくるのも、
その服を着る理由も知っているからあたしはおとなしく文句だけ言うことにした。
ナルは迷惑そうにこっちを見て、いつものようにため息をついて本に目を戻す。
ナルのこういう態度にはもう慣れっこだ。


再び静かになった部屋に、かちゃかちゃと紅茶をかき混ぜる音だけが、響いて残る。
ナルの家は、いつだって静か。
飾り気がなくて、だだっ広いリビング。
飾りと呼べるもので唯一あるのはあたしがアパートから持ち込んだ、
山田製作所とか言うところの広告付きカレンダーだけ。
こんな高級マンションにはちょっと不釣合いだったかな。


ふと、今日の日付を確認する。
お母さんの命日まで、あと一週間とちょっと。
この家にいると時間がたつことすら忘れてしまいそうな気がするんだ。
この家にいる時間が長い分。
忘れてしまうことが怖い。


お母さんがいなくなって初めの1年。
お母さんが使ってたエプロンとか、コップとか、口紅。
そういうものを見つめて、お母さんの顔を思い浮かべては泣きじゃくった。
一人ぼっちだってことがどうしようもなく悲しかった。
だけどお母さんの声が、徐々に思い出せなくなった。
笑い方とか、しぐさとか。
だんだんぼんやりと、霞んでいく。


お母さんが死んだことが悲しいんじゃなくて
お母さんがいないことに慣れてしまうのが怖くなって。
家族がいないことが、
寂しいことが当たり前に思えてしまうことが、
本当に怖かった。



本を読むナルの横顔を見上げた。
不意に、優しいあの人と、面影が重なる。
今はもういない。
その人は、ナルの半身で、いつもそばにいて。
いなくなったのは最近なのに。


時々ナルが考えていることを、知りたくてどうしようもなくなるんだよ。
どうしてそんなに強くいられるの?
あの人が死んだと知ったとき、泣かなかった?
こんな部屋で、一人でいて、怖くはならない?
ねえ、あたしたちは、同じ傷を抱えているはずなのに。



何度も問いかけたかったことだけど、触れてはいけないような気がしていつもためらってしまう。
あたしは静かに紅茶のカップを置いた。


「ナルの髪ってきれーだよね。黒くて艶があって。うらやましいな」
ナルにとったらどうでもいいことを話しかけて、ナルの髪の毛をくるくると指に絡めながらあたしは構ってよ、の合図を送る。
ナルは盛大にため息をついた。
「麻衣」
呆れた口調。
いつもの調子で行くと軽くあしらわれるのがオチ。
そうは行かせるもんか、とあたしがちょっと身構えると、ナルの腕が伸びてきた。
気付いた瞬間にはナルの腕の中。
これは予想外だった。
「な、なに?」
びっくりして離れようとするけど、ナルの力は思ってるよりも強い。
「この方が、静かになるだろう」
綺麗で静かな声がナルの胸越しにあたしの耳に響いた。
いつもよりなんだか穏やかな、優しいような、そんな声だった。



そういえばつい昨日、もうすぐお母さんの命日なんだって、言ったばかりだ。
ナルは、優しい。
不器用だけど時々、泣いてしまいたくなるくらい、優しい。



ナルの温かさとか、規則正しい心音とか、腕の力とか
いっぺんに確認して、
じんわりと、心のどこかが暖まっていく。
あたしはゆっくりと、息を吐いた。
大丈夫、寂しくないよと、ナルの背中に回した腕に少し力を込めると、
ナルの腕の力も、少しだけ強くなった気がした。
胸が苦しい。


あたしは直感のオンナだから。
ナルの腕の中にいると、確かに感じる。
ナルみたいに見えたりはしないけど


ああ、やっぱり
ナルも本当はあたしと同じなんだって。
安心してしまう。





******





また、あの日の夢を見た。
お母さんとお父さんと、手をつないでにこにこしているあたし。
沈んでゆく夕日が真っ赤でとてもきれいで。
あたしは嬉しくてお父さんを見上げるのだけど、顔がはっきり見えなくて、
慌ててお母さんを見上げると、お母さんは何かを話しかけてきて、でも声が聞こえない。
次の瞬間には二人の手の感触がなくなって、長く伸びるあたしの影だけが、そこにある。


いつもその夢はそこで終わるのだけど、今日は続きがあった。


あたしの前に影が降りて
ふと見上げてみると綺麗な男の人が、立っていた。
彼は無表情に手を差し伸べてくれて、
あたしはひどく安心してその手を握ろうとする。


そこで目が覚めた。


結局、手を握れないまま。



目を開けて、そこがナルの部屋だということに気付いた。
安心したような、でも寂しいような、色んな気持ちが織り交ざって、ため息をついた。
ナル、まだ論文かいてるのかな。


ねえナル。
あたし、時々不安になるんだよ。
あたしたちは、大切なものを失ったよね。
だから、いつかまた突然取り上げられてしまいそうで。
それがあたしなのか、ナルなのか。
そう考えるとすごく不安になる。


あたしは寝返りを打ち、小さく小さく身を縮ませる。
扉が開いた。いつもなら明け方にやっと眠りに来るのに。
珍しく、論文が進まなかったのかもしれない。
ナルはそのまま静かにあたしの隣に滑り込んだ。
隣にぬくもりがある、ただそれだけのことなんだけど、なんだか安心して、あたしはゆっくりと息を吐く。
それからナルの背中におでこをくっつけた。


「ナルは、いなくならないよね」
ぽつり、とつぶやくと、ナルはこちらを振り向く。
あたしはなんだか気まずくなって、強く強く目を閉じた。
返事はなかったけれど、代わりにナルの指があたしの髪を少し掬い上げて、梳いていく。
そっと、ゆっくりと。



「ひとりは、さみしいね」
またそうつぶやいて、あたしはナルの手を握った。
いつでも離れられるように
やんわりと


あたしは握ったその指から、ナルの寂しさを知る。


人に触れることなんてしなかった人なのに
あたしに触れるのは
触れられるのを許すのは


きっと、愛しさとか、そんなのよりも。
少なからず、共感するところがあるからだよね。
それでいいよ。


ふたりでいれば、寂しくない。



夢の続きを見た。
男の人が手を差し伸べて
あたしはしっかりとその手を握った。
それからあの夢はもう、見なくなった。






fin...
お題提供:切ない30の言葉達
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